過労自殺訴訟棄却に遺族「非常に残念」 - MSN産経ニュース
一部で話題だが、過労による心身消耗のための自死とされている件を考えてみる。
事の次第を要約すると、
H13年10月入社
H14年6月4日未明にビルから投身
H15年7月労基署に遺族が労災申請するも不認定
H20年9月提訴
H21年8月棄却
まず、労基署で不認定という時点で、労災とする根拠が残っていなかったと推測できる。
また、
原告側は「入社1年足らずで複雑なシステムを組まねばならないのに、先輩や上司からの指導がなかった」と主張したが、中村裁判長は「会社の支援体制に問題はあったといいがたい」と退けた。という主張からも、勤務時間記録、通院履歴等、第三者に対して心身消耗を証明するものが全くなかったのだろう。労災とする基準は世の中にはあって、労働基準法、労働安全衛生法にて労働者は保護される。しかしながら今回の事件は、それをする自助努力が必要か否かということを論点にすべきところではないかと感じている。
心身消耗で自分が間違っていると認識してしまった場合、反論するだけの体力がなければ、そういった記録を残すこともできないだろうし、病気と認識しなければ通院して診察を受けることもできないのだろう。
そこにたどり着けなかったことを労災によるものと認めるべきか否か。残念だが現行法では認めるわけにはいかないだろう。
これは自分が人事という立場で従業員が休職から退職するまでを見送った経験もあり、労基署に時間外労働の未申告の顛末を詫びに行ったこと、休職者の復職を手伝ったこと、後輩に自死されたこと、自分も病んで休職し復職した立場であること。いろんな立場を経験してみたが、どうあるべきなのかはわからないし断言できないが、気持ちだけではどうしようもないことがある。
法令に則した証拠がなければ行政は認めるわけにはいかない。人情論だけではどうしようもないことは、社会という枠組みで生きていこうとするならば仕方のないことだろう。そして、自分の身を守れるのは自分でしかないということ。何が正しいか、間違っているか、どうあるべきか、どう在りたいか。自分自身を見失わないようにしなければならないのだろう。
この事件は、様々な立場からの意見がある。いわゆるIT土方の作業環境に対する問題提起、立法のあり方を問う立場、労災というものに対する見解、精神疾患した側からの叫び。どれも現代社会での不条理を問い詰めたいという思いがこもっていて、それが伝わってきて、とても心が落ち着かない。わかるところもそれはちょっとということもいろいろあって、なんだかまとめられない。
ということで、チラシの裏にちょっと吐き出してみた。
最後になりましたが、故人のご冥福をお祈りします。どうぞ安らかに。
0 件のコメント:
コメントを投稿